みなさん、おはようございます。こんにちは。こんばんは。
今日から1日1メッセージとして社内向けにブログか動画をつくって発信していこうと思います。
「なにがあったの?」(笑)と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、理由はいたってシンプルです。
情報発信を通じて私という人物や私の頭の中を皆さんに共有したい。それだけです。
普段一緒に現場で働いているわけではないですし、私が何を考えているのか謎に感じている人もいるのではないかと思っています。
だから、この活動を通じて「私」という人間がどういう人間で、何を大切にしていて、福祉についてはどのように考えていて、今後会社をどうしていこうと考えているのかなど、皆さんにしっかり伝えていかないといけないと思いました。
ですので、おもしろくないブログかもしれませんが、1日1回ブログに目を通していただけますと幸いです。
本日は第1回として、私自身がなぜ障害者福祉業界で仕事をしようと思ったのか、そのきっかけについて皆さんにお伝えしたいと思っています。
コロナ禍での従業員の死
私は2015年にコンテンツマーケティングといわれるWEBマーケティングの手法を用いた集客支援事業で起業しました。
コンテンツマーケティングってなに?と思われるかもしれませんが、簡単にいうと消費者に対して役立つ情報を発信することでWEBサイトへのアクセスを増やし、結果的に問い合わせや購買に繋げるような仕事です。
もう少し具体的に話すと、例えば「仙台 おすすめ 居酒屋」と検索すると仙台でおすすめの居酒屋10選のような情報を発信しているサイトってたくさん出てきますよね?約10年前にあのような記事をたくさんつくって、検索すると上位に表示されるように対策して(SEO対策)、アクセス数を集めたりしていたんです。
上記のような仕事をしているもんですから、仕事はパソコンひとつあればどこでもできるわけでして、今でもそうなのですが、コロナになる前からリモートワークを推奨しているような会社でした。
そんな中、創業期から携わってくれていた女性社員が2021年11月8日に永眠されました。
2016年から約5年働いてくれていたのですが、乳がんで54歳という若さで亡くなられました。
彼女はもともとパソコンを使った仕事なんてやったことがなく、初めてお会いしたときは49歳くらいでしたのでウチの仕事は難しいだろうから丁重にお断りしようと思っていたのですが、49歳とは思えないほどの気持ちの入りようで「何でもやりますので雇ってください」と熱い想いを伝えられ、私も心を打たれて採用することにしました。
そこから彼女は本当に一生懸命働いてくださり、彼女がいないと仕事がまわらないという状況になりました。
自分の仕事にプライドをもって、仕事が楽しいといつもおっしゃってくれていました。
そんな中、乳がんが発覚し、状況は悪化。ステージ4となり余命宣告を受けた彼女は絶望の淵に立たされていました。
身寄りがない方だったので、入院中は私が合い鍵を預かって自宅に荷物の整理をしに行ったこともありました。
そこには死後の世界に関する本や宗教に関する本などが並べられており、彼女がどれだけ絶望的な気持ちの中で戦っていたのか非常に心が痛んだことを覚えています。
コロナということもあって面会することもできなかったのですが、チャットワークを通じて頻繁に連絡を取る中で、彼女は死ぬ間際まで仕事をやらせてほしいと私に懇願していました。
口癖のように「会社がもっと大きくなってくれるといいな」とか「自分がつくったサイトがもっと多くの人に見てもらえるようになったらいいな」と言ってくれており、最初は仕事をやってもらうことは負担になると思っていたので敬遠していたのですが、本人の強い希望があり、病室からパソコンを立ち上げて死ぬ間際まで仕事をやっていただいておりました。
彼女はつらい状況にあっても仕事を通じて社会との接点を持てているという実感が最後まで一番の精神安定剤だったようです。
僕はこの経験から、社会や人に対して何か貢献できているといった自己肯定や尊厳はどのような環境にある人でも持てる/選択できる環境整備が必要だと思うようになりました。
そこから、様々な理由で場所や環境によって働くことが困難な人に対してIT(WEB、パソコンなど)スキルを習得させて、いかなる環境下でも就労する選択ができるよう自分に何かできることはないかと考えるようになりました。
母親が携わるB型事業所の経営難
従業員の死に悲しんでいる最中、私の母親が勤めていたB型事業所が経営難になり、身売りするという状況になっていました。
私の幼馴染に重度の知的障害者がいまして、家族ぐるみで仲がよかったこともあり、私の母は1998年に知的障害をもつ親たちと共にB型施設の立ち上げに参画しておりました。
母親の仕事の関係もありましたが、私自身幼い頃から障害者と距離が近い環境で育ち、いつか自分も力になれたらなぁと漠然と思っていました。
会社経営が軌道にのり、事業をつくるというところに自信が出てきたこともあって、母親と障害者福祉について話をする機会も増えていた矢先の出来事でした。
外野から母親の施設に対して、「もっとこうしたほうがいいんじゃないか?」とか偉そうに言っていたわけなんですが、結果身売りするとなったときにはすごく悔しさが込み上げたのが記憶にあります。
自分は結局行動しなかったという悔しさと、ホスピタリティ精神だけでは福祉施設は継続が難しいという悔しさのダブルパンチでした。
そしてまわりを見渡した時に、母親の働いていたような施設って多いんじゃないかと思うようになり、実際に調べていくと本当に多いと感じ、これは自分が立ち上がって当時の悔しさを晴らしてやろうと思うようになりました。
だいぶ話が長くなってしまったのですが、①と②の理由からIT×障害者福祉というのは自分がこれまで培ってきた経験を社会に提供できる事業なのではないか?と考えるようになり、障害者福祉事業として、まずは就労移行支援事業を開始しようと思ったのでした。
今日は初日なので、ここまで。
無理せずコツコツやっていこうと思います。
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